第二話 さすらいの麻雀マシーン

年間で一万回近く東風戦を打つけど、何年経っても印象に残っている局面など少ない。

出勤する時、自転車で店へ向かう途中を右に曲がると、桜並木がある。店とは違う方向なので通らないけど、毎年綺麗に咲き誇り、夕方になると早くもお酒を飲んでいる集団を見かける。自転車を止め、桜を見上げると、花びらを縫うようにオンボロアパートが見える。そこは昔「iPop」の寮だった場所だ。桜を眺めていると、あの時も綺麗に咲いていたなと切ない気持ちになり、とある一局を思い出す。

「このリーチはツモる」
東発の親番、特に根拠も無いが、そう確信して牌を曲げた。
時間は一九時を過ぎたところ。セットは入っておらず、今「iPop」ではお客さんが二人、メンバーが二人の面子で、一卓しか立っていない。立ち番が一人いて、僕の後ろの丸椅子に座って卓を見ている一番麻雀に集中出来る状況だ。一発は無かったものの、三巡後にあっさり6000オールをツモった。前回トップだった良い流れをしっかりと引き継いだ、手応えのあるリーチだった。それから一本場に12000は13500を対面から出アガり、56500点持ちで迎えた二本場。下家が早々に白を仕掛けた。僕は可もなく不可もなくといった配牌で、向かうか受けるか決めかねていたけど、下家が続けて發を鳴いた時に、中を抱えて受ける事に決めた。それから一枚も鳴かせず、ツモ切りが続く下家が捨てた赤五ピンを対面がポン。この場は二人の戦いになった。
しかし牌は言う事を聞かない。安全牌が欲しいにも関わらず、僕の意思とは反対にどんどん有効牌が寄って来る。未だ顔を見せない中を抱えたまま、僕の手牌はイーシャンテンまで育った。三-六萬と五-八索が入ればテンパイ、面前で入れば頭を落として回ろうかと考えていた時、下家が手の内から白を加カンした。新ドラは七萬で、僕の手牌に右から三枚並んでいる。リンシャンからツモ切りした三萬を対面がポン、左手で中を叩き切った。5500点持ちのラス目のため、展開を遠目から見ていればばラスの可能性が高く、取り戻すなら二本場の今しかない。役満も恐れず前に出る、打牌から勝負の意思が伝わってきた。それに声はかからず二人の殴り合いが始まる。
次の僕のツモはポンカスの三萬。タイミング良く、合わせたように中を切って満貫のテンパイ。五-八索は二人が一枚ずつ切っていていい待ちになっている。

ーーもらった

そう思ったのも束の間、次に下家がツモ切ったのは四枚目の七萬。対面の間七萬待ちに満貫の放銃だった。
「次順ツモって六万点終了だったのに!しかも七萬は暗刻だよ!」
「最後の一枚を掴んじゃったか、ついてないなぁ〜。僕も大きい手だったんだけどな」
目の前の山をめくりながら、どんな手だったのかと下家の手牌を覗くと字一色のテンパイだった。恐らく誰も止まらない、ゾッとするような地獄待ちの北。これは先に七萬がいた事を悔やむしかない。
山をめくるのも、人の打牌にケチを付けるのも、手牌を覗くのも、フリー雀荘では有り得ない行為だけど、これはまだ十九歳の時の話なのでどうか許して欲しい。生意気な学生で、当時のアダ名は「クソガキ」だった。
何事も無かったように点棒を払い、ついてないなぁと笑顔で山を崩し、この字一色のテンパイをみんなに喋るんじゃないと、僕に笑顔の奥の目で釘を刺すのは、同僚の「わくちゃん」。ほどよい緊張感で卓が回る、いつもと変わらない日常だ。
役満のテンパイなんて、雀荘では日常茶飯事。この半荘にはまだ熱い展開が待っているが、まずはその時下家に座っていた「わくちゃん」を紹介したい。

まだ「iPop」がオープンして一年目、雑誌「麻雀現代」でメンバー募集をしていた頃、僕は働き始めて二ヶ月目の時だ。ボストンバッグを抱えて入ってきたのがわくちゃんだった。まだフリーが営業開始する前、たまたまセットの予約が入っていたため、僕が一人でセット番をしていた時。最初は参ったなと思った。この時間に一人で入ってくる人は、フリーの営業時間を知らない新規客の事が多く、僕はまだルール説明さえおぼつかない。
「いらっしゃいませ、フリーですか?」
「いえ、スタッフ募集の求人を見てきました」
あちらにかけて少々お待ちくださいと声をかけてからオーナーに電話すると、十分で着くからお茶をお出しして待っててもらうようにとの事だった。雑誌での募集内容には日当一万二千円の他に、ゲーム代バック有り、入寮可能と、見る人が見れば魅力的な条件だった。その十分間、ボストンバッグを持っていた男を観察していた。年季の入った眼鏡、ヨレヨレのシャツ、擦れたズボン、ボロボロの靴、まだ春で肌寒いのに薄着だった。オーナーが到着して少し話すと、すぐに採用が決まった。
「和久井君を寮まで案内してこい」
そう言って、僕にポケットから取り出した鍵を放り投げた。
「お前も今日から先輩だぞ、店の事を色々教えてやれ」
オーナーのその言葉を背中で受けながら店を出る。分かりましたと返事はしたけど、一回り上の後輩と何を話していいのか分からない。普段お客さんとは喋れるのに、妙な人見知りをしながら話しかけてみた。
「何て呼べばいいですか?」
「わくちゃんって呼ばれてるよ。さん付けだと堅苦しいからそれでいいかな」
僕のどぎまぎした雰囲気を察してか、わくちゃんはそう言った。それからは変な緊張は解けて、ここに来るまでの経緯を聞いた。緊張が解けると次は興味が沸いてくる。入寮希望という事は家が無いという事だ。漫画喫茶を転々としながら西へ向かっているらしい。話しに夢中になって桜並木を抜ける。桜なんて目に入らなかった。空っぽの寮にボストンバッグを置いて店に戻る。戻ってから飲み物の場所やゲームシートなどの説明をしていると、お客さんと十七時出勤のメンバーが一緒に入ってきた。気付けばもうそんな時間だ。色々話しているとあっという間に時間が過ぎていた。二人に挨拶をして、わくちゃんを紹介する。
「さっき飛び入りで入店した和久井さん。通称わくちゃんです」
二人にわくちゃんを紹介する。
「じゃあ詳しい自己紹介は卓上でしてもらおうか」
スーツのジャケットを脱ぎながら梨元さんが言った。この人は昔メンバーの経験もある、サラリーマンの皮を被ったサウスポーの雀ゴロ、通称「ナッシー」だ。そんな事はわくちゃんには説明せず、梨元さんとだけ紹介し、急いで準備を済ませて初めて卓を囲む事になった。
自己紹介をしてもらうとは言ったが、卓上に会話は無い。常連とメンバーは試すかのように早いテンポで打ち、それにわくちゃんはすんなりとついて行った。僕はといえば、リズムを乱さないように、一人であたふたしている。わくちゃんの麻雀は綺麗で丁寧だった。ツモる切るの所作、点棒の申告や払い方、全ての動作に無駄がなく、スムーズな流れは見ていて面白い。二半荘が終わったところで来店があり、わくちゃんの席に案内となった。
「まるで機械みたいだな」
ありがとうございましたと席を立つわくちゃんに、ナッシーが笑いながら言った。僕には合格だと言っているように聞こえた。
少し時間が経ち、卓は二卓になったところでオーナーが店に帰ってきた。
「どうだ?和久井君の様子は」
「本走中です。今のところ全く問題ありません」
そうかと頷き、本走中のわくちゃんの後ろの丸椅子に座った。少しすると立ち上がり、僕に言ったのか独り言なのか分からない声でこう言った。
「あいつはダメだな」
その時は意味が分からなかったが、徐々に理解する事になる。