第一話 あいぽっぷの桂木くん

十五時

起床時間は十五時、そろそろ日が暮れ始める頃。iPhoneのアラームを止め、煙草に火を点けると、もう麻雀の事を考え始める。僕の仕事は雀荘のメンバー。名前は桂木とでも名乗っておこうか。
昨日はなぜ負けたのだろう。マンションのベランダから外を見下ろすと、下校中の小学生の列が見えた。昼夜逆転の生活をしていると、たまにお日様の光を全身で受け止めたくなる。身を隠すように部屋に戻り、風呂場へ向かう。
いくら考えたところで、まともな改善策は見当たらない。熱いシャワーを浴びて目を覚ましながら、昨日の事をまだ考えていた。以前負けた日の共通点を考えていた時、パンツを履いていたという結論に至り、試しにパンツを履かずに麻雀をしてみた事がある。全ての行動が麻雀に繋がってくると考えているので、パンツを履かない事で勝てるならお安いものだ。なぜかその日は負けたけど、勝つためにやれる事はやる。思い返してみると、負けて良かった。勝っていればこれから麻雀を打つ時にはパンツを履けなくなる。
少しのんびりしてから、仕事の準備。準備と言っても財布とiPhoneを持てばそれでおしまいだ。通勤手段は電動自転車。バッテリーが充電されているのを確認して家を出る。
途中、いつものコンビニでいつものコーヒーとパンをカゴに入れる。目に止まったお菓子も適当に掴んで入れた。レジに持って行き、いつものおばちゃんに煙草もちょうだいと言うと、振り返りながらこう言った。
「夜から朝にかけて雨が降るよ」
「えー、ほんとに。朝の予報もあてにならないね、自転車で来ちゃったよ」
年齢確認のボタンを押して、いつも通り電子マネーのジェスチャーをする。おばちゃんはうなずいてから、さっき家を出る前のテレビで見たと言った。
「でも帰るのは朝だろう?早朝には止むって予報だったけど。念のため私がてるてる坊主を作っておいてやるよ」
商品を袋に詰め、僕に手渡しながらにっこり笑った。その袋から、ブラックサンダーを一つ取り出し、これ食べてよとおばちゃんに手渡して、お礼を言って手を振った。
ここはちょうど職場との中間地点。片耳にイヤホンを付けて、いつもの音楽を流す。なんだか今日は勝てそうな気がしてきた。また自転車を漕ぎ出すと風は冷たく、空の色は濁っていた。

十六時

職場は駅前のビル。駐輪場に自転車を止め、エレベーターは使わずに階段で三階まで昇る。負けた人間は大抵がエレベーターを使っているからだ。三階まで上がると、二つのテナントが入っている。左には、小学校受験のための塾。高級住宅が並ぶベッドタウン、このあたりのお坊ちゃん達が通う塾だ。右には「iPop」という雀荘があり、僕はそこで店長をやっている。
こんにちはと子供達に挨拶をして、雀荘の鉄の扉を開ける。店に入ったら電気と有線を付けてシャッターを上げる。煙草に火を付け、おしぼりウォーマーと自動卓の電源を入れると、カウンターに腰掛けて今日のゲームシートを出す。目の前にある一番卓の卓上には、昨日の最後の対局がそのまま残っていた。倒れている手牌は一発逆転の親倍で、まくられたのは僕だ。洗牌道具を持ち、その瞬間を思い出しながら昨日の席に座ると、十時間前の風景が浮かんでくる。
四万点を超えた断トツのトップ目だった僕は、重たい配牌を見た瞬間にオリを選択した。ジリジリとして誰も仕掛けないまま局は進み、残りツモ三巡でリーチをかけた親が一発でツモった。下家の手牌を倒すと、字牌が二組対子のイーシャンテン。字牌を絞らなければ、点差の離れている二着だった下家が捌いていただろう。さっさと走らせておけば良かったと反省して山を崩した。そして昨日の悪いイメージを忘れ去るように力を込めて牌を磨く。急いでいる訳ではないけど、洗牌の早さには自信がある。もちろん仕上がりの綺麗さにも。
フリーの営業時間は十七時から、朝、卓が割れるまで。帰るのは朝の七時前後の通勤ラッシュだ。洗牌が終わり、一通りの準備を終えると、パンをかじりながら収支ノートを開いた。今月も半ばに近いが、少しながら成績は黒字だ。長年のサイクルで、後半戦に弱い事は分かっているので、なるべく前半戦に貯金を作っておきたいところ。なぜ後半戦に弱いのかは探求中だ。
のんびりコーヒーを飲んでいると、鉄の扉から従業員が二人出勤してきた。さて、最初のお客さんは誰だろう。

十八時

オープンから一時間経つと、メンバーもジリジリしてくる。歯ブラシで牌を磨きながら、誰が最初に来るか当てようとゲームが始まった。平日に来店率の高いお客さんの名前が挙がったけど、思いがけない人が来るような予感がして、僕は名前を挙げなかった。
隣の塾の子供達も帰り始め、エレベーターホールにはお見送りの先生達が列をなしている。ガラスの扉越しに目が合った子供に手を振ると、走って逃げた。人見知りなんだろうと決め付け、誰か来ないかなあと店内から外を覗く。このビルの構造は変わっていて、道路側はガラス張りで外が見える。隣も塾だけど、上のフロアにも小学生向けの塾があるため、お迎えのお母さんたちが頻繁に出入りするのがよく見える。ただのお迎えだというのに、競うようにオシャレをしている綺麗なマダム達は眺めていて飽きなかった。
ぼーっと外を眺めて二分ほど経つと、松葉杖をついた人がこのビルに入って来た。この時間に営業しているのは、地下のバーとうちだけ。地下への階段を降りないという事は、目的はうちだった。上を見上げているので手を振ると、振り返してきた。誰かまではわからないけど、人見知りではないようだ。
エレベーターが三階で止まり、出てきたのはすーさんだった。いつもは休日にしか来ないお客さんだけど、右足には大きなギブス。どうしたの、大丈夫かと聞くと、歯の抜けた口から元気そうな声が返ってきた。
「事故っちゃって仕事にならないよ」
じゃあ時間はいっぱいあるねと満面の笑みで卓まで肩を貸した。思いがけない人が来た事で、今日の手応えを感じた。

十九時

あれからもう一人来店があり、一卓二入りの状況。四回やって四連勝、麻雀はすーさんが噴いていた。すーさんは自他共に認めるうちの負けガシラで、さっき僕から溢れた笑みはそれが理由だ。しかし、どれだけ普段負けていようと、たまには勝つ日もある。それが麻雀の醍醐味でもあるけど、その日は他所でやってほしいと、ぶち当たる度につくづく思う。
「いやー、たまには足も折ってみるもんだな!」
「まだ朝まで時間はあるんだから、飛ばし過ぎて息切れしないようにね」
もう一本折ってやりたくなる気持ちをこらえてそう言った。
iPopは点五の東風戦。ウマはワンスリーで、赤が三枚、金が一枚。赤裏一発は面前のみ二百円、金は鳴いても五百円だ。一発と海底のみ有効の白ポッチも入っている、よくあるスピードバトル。点五とはいえ、回りが早いので、刺さる時にはズッポリ刺さる。開始から一時間と少しで早くも三本目のアウトを切りそうな展開。アウトとは、従業員が麻雀を打つためにレジから出金するお金の事で、「iPop」では五千円単位で出金する。稀にだが、お客さんにも種銭が尽きた時に出す事もある。
ギリギリ持ち堪えたところでまた来客。打ちたがりな僕といえど、この卓は分が悪いと見て、もう一人の打ちたがりに任せて席を立った。一卓一入りに落ち着いたので、夜食を買いにすぐ近くのスーパーへ向かった。ちらほらと雨が降り始めていた。