ぶっこ抜きの竹田さん

その日の僕は、四番卓の二番席に座っていた。 四番卓は入口から一番近い卓で、二番席は入口がよく見える。エアコンの風がよく当たるから、夏は寒く冬は熱い。 店内にある大半の卓に背を向ける事になるけど、まだ一卓しか立っていないこの時間帯では、僕にとって都合が良い席だった。
あぁ寒い。八月も終わる頃、寒がりな僕はガタガタ震えながら冷たい手で牌を握っていた。 お客さん三人と囲んでいるこの卓は東三局。何気なく店の外に目をやると、エレベーターが動いた。どこで止まるのか数字眺めていると、三階で止まって降りた人間はこちらへ向かってきた。
うちの入り口の大きなガラス戸だ。真ん中には店の名前が書かれた看板のシールが貼られていて、外の様子がその上と下だけ少し見える。上からはエレベーターが動くのが分かるし、背が高い人なら顔も見える。下からは膝の下くらいから靴まで見えて、たまに学習塾の子供達が興味津々に覗いている。 常連なら足元と背の高さで大体の人は分かるけど、向かってきたのは見慣れないサンダルで、入ってきたのはやっぱり知らない顔だった。
いらっしゃいませ、フリーでしょうか?と声をかけると無言で頷く。 お客さんに、ちょっとすいませんと一声かけて手牌を伏せる。お客さんも手牌を伏せたのを確認してから、こちらでお待ちくださいと待ち席を指して立ち上がった。
ソファに腰掛けてもらいおしぼりを手渡す。まだ声を出さないこの男は、受け取りはしたものの手を拭いたりはせずにそのままテーブルに置いた。それからお客様カードの記入をお願いする。これには名前や年齢、住所、電話番号、希望のレートなどを書く欄があるけど、基本的には名前と初来店の日が分かればいい。書ける範囲で、という言葉にペンを添えて卓に戻る。
見格好は、Tシャツにゆったりとしたハーフパンツとラフな格好。 どんな人なんだろう。ご新規のお客さんが来ると、転校生が来た教室のようにみんながそわそわしだす。これから一緒に卓を囲む相手だ、麻雀は打てるのか、うまく混ざれるのか。急に静かになったこの卓で、途中だった半荘はあっさり終わった。
お待たせしましたと、ご新規さんのいる待席へ急ぐ。記入してもらったカードの名前を確認して改めて挨拶する。
「竹田さんですね、桂木ですよろしくお願いします」
竹田と名乗る男は、ハンカチで汗を拭いながら目は合わさずにまた無言で頷いた。 書いてあった年齢は46歳。住所は大まかに書いてあり、希望のレートは50円にチェックが付いていて、あとは何も書いていなかった。近くに住んでいるようだ、良いお客さんになるかもしれない。 ルール説明では慣れてるなという印象だった。しっかり最後まで聞いて、相槌を打つ。
一通り説明が終わると、両替を頼まれた。財布ではなくマネークリップを使っていて、ちょっとした現金が挟まれている。身なりはラフだけど、それぞれに高級感があり、どれも安いものではないと思う。まだまだ計れないけど、普通のサラリーマン、勤め人の雰囲気では無かった。
カゴの中に千円札を九枚と百円玉を五個、五百円玉を一個。両替の確認をしてもらってから、それまで僕が座っていた二番席に案内した。
「ご新規の竹田さんです、よろしくお願いします」
それに応えて、卓に座っていた常連達が続く。でも声は一つ足りない。誰かが卓に着いた時に挨拶をするのはフリー雀荘では常識で、当たり前のマナーだ。でも竹田さんは挨拶をしなかった。
後ろで見ていると、やっぱり麻雀は慣れていた。所作や点数の申告は丁寧で、お釣りがある場合はそれもちゃんと申告する。それに判断が早い。やや押し気味にも見える麻雀だけど、迷い無く危険牌も押していく。 卓の進行は全く問題無かった。八回戦、二時間程打って初日は帰った。
竹田さんは次の日も、その次の日も来た。 ルールが気に入ったのか、場所が良いのか、理由は分からないけど月曜日から木曜日まで週に4日遊びに来るようになった。時間は十八時から十九時の間。だいたい八回戦、二時間ちょっと打って帰る。
少し時間は経てど、卓に入る時の挨拶は無く、マナーは良いけれども、愛想が無い。 ただ、横柄な態度という訳でもなかった。何かを頼む時には「両替お願いします」とちゃんと敬意を込めた言葉を使う。でもやっぱり愛想は無い。
ある時、竹田さんの後ろに立った時、少し嫌がっているように感じた。何を言われた訳でも、顔色が変わった訳でもない。これは長年の勘といったところで、過去にもそういうお客さんはいた。 小さけれど、お金を賭けた真剣勝負。手の内を知られたくないというお客さんも珍しくはない。それを茶化すでも否定するでもなく、なるべくこの人の後ろには立たないようにしようと思った。僕の仕事としては、卓の進行が見れればそれで良い。
何度か来るうちに分かった。竹田さんには、この店に混ざる気が無い。それは不機嫌でも無礼でもなく、最初からそういう距離だ。雑談を拾わず、馴れ合わず、麻雀だけを打って、帰っていく。家でもなく職場でもない。ここは、混ざれる人の場所であると同時に、混ざらない人の場所であってもいい。そのどちらも崩さないために、僕はここに立っている。
とある日、一人で店番をしていると、最初のお客さんが竹田さんだった。 おしぼりと水を出して、オーナーに連絡をする。今は二人で回しているから、誰か来ないと卓が立たない。時間潰しの三人麻雀をやる事もあるけど、ある程度打ち解けている常連との、誰か来るまでの時間潰しだ。この人とは出来ないだろう、困ったな。
一人では気にならなかった沈黙が耳元で騒ぐ。頼む、誰か来てくれ。そんな思いで手当たり次第、常連にメッセージを送りまくる。三十分くらい同じ空間に二人だったけど、結局一言も喋らなかった。
また別の日、最初のお客さんとそんな事があったんだよと話をしていると、この前竹田さんと喋ったよと言った。
「その日、次に来たの俺だったじゃん。あの人に待ちましたか?って聞いたんだよ」
「うんうん」
「そしたら、そんなに待ってないですよって」
「うんうん、それで?」
「それだけ」
「うーん」
竹田さんの雑談は、ほんとにそれだけだった。 そんな話をしていると、ガラス戸が開いてオーナーが帰ってきた。そして休む間もなくエレベーターはまた往復して、噂をすればと竹田さんが来て卓が立った。
「四卓で始めようか」
というオーナーの言葉に、常連は四番卓を見渡す。昨日はどこが良かったっけな、と呟いて、少し考えてから一番席に座った。
竹田さんどうぞ、と卓へ案内すると、何を思うのかすぐにニ番席を選んで座った。 "風がよくあたるので、寒かったら言ってください"と伝えると、黙って頷いた。この前も座ってたな、何か気に入ったのか。
おしぼりと水を二番席のサイドテーブルに置く。自前のハンカチで汗は拭いても水に手を付ける事はない。暑がりなんだろうな、それくらいに思っていた。
「うわ〜すご〜」
それから少し経って、またお客さんが来て僕と替わり、カウンターでレジ金の確認をしていると、四番卓から声が聞こえた。覗いてみると、竹田さんが上がったみたいだ。でもカウンターからだと、二番席は上家の背中が死角になって手元が見えない。気になって、腰を上げて覗きに行く。
まだ自動卓が牌を積み始めた矢先に、竹田さんが二巡目のツモ。赤使いの間ローピンで、500-1000の一枚だった。 その時、ダブリーでしたと少し恥ずかしそうな笑顔で言った。うまく表せないけど、初めて竹田さんが人間味のある表情を見せた気がした。どこか殺しきれなかった感情が湧き出ているかのような。
”笑えるんだ”っていうのが素直な感想だった。それを見て、少しでもいいからこの場に混ざれれば、竹田さん自身がもっと楽しんでもらえるのではないかと思った。どんな人なんだろう。この人に少し興味が湧いてきた。 この時、僕は店ではなく人を見ていた。
「あれは良い客だな」
ある日オーナーが言った。 決まった日の決まった時間に来る、四人いないと出来ない麻雀というゲームにおいて、卓の目途を立てやすいのは、店側からしたらかなり助かる。 和気あいあいとした雰囲気も、この人が入れば空気がグッと締まる。口に出さずとも、それを面白くないと感じている人は少なからずいた。 でも店としては悪い事ばかりではない。どうしても常連同士、いつも顔を合わせているメンツだけで打っていると慣れや緩みが出てくる。この人が入れば雑談は無くなり、本来フリー麻雀があるべき勝負の場となる。
お客さん同士もしかりだけど、我々メンバーとお客さんの距離感はとても大事だ。 打ち解けて雑談も出来た方が営業しやすかったりもするけど、この人はそれが無くても通ってくれている。無理に仲良くなる必要もないな、とも思っていた。
少し話が変わったのは、昔うちでメンバーをやっていた佐野くんが遊びにきた時だった。 竹田さんと同卓して、卓割れした後に僕のとこに来た。
「対面に座ってた人、ぶっこ抜きしてるよ」
「え?」
「この目で見たから間違いなくやってる。配牌が上がってきて前に出す時、注意して見てみて」
ぶっこ抜きとは、自分の手牌二枚と山の二枚を入れ替えるイカサマだ。 今までフリー雀荘でイカサマの現場を見たことはなかった。同卓してれば気付くだろうと思うのは過信だったのだろうか。
佐野くんは一緒に働いていた事もあるから、麻雀の腕前はよく知っていて、かなり打てる。その彼が言うのであれば、見間違いや言い掛かりではないと思う。
とはいえ、現場を抑えた訳ではない。次に来店した時に、あなたイカサマしたでしょ、と言ったところで、やってないと言われればそれまでだ。変に挑発して、警察に変なチンコロでもされたらこっちが困る。まずは現場を確認する事にした。 今日は木曜日だから、次に来るのは来週か。あと何日か、待ち遠しいような来てほしくないような。
それから週は明けて月曜日。
オーナーにも佐野君から聞いた話をそのまま伝えて、竹田さんが卓に入っている時には厳戒態勢で卓を見ることになった。 さあ、今日は竹田さんが来る日だ。そんな事はつゆもしらず、竹田さんが来た。お客さんが一人待っていたから、これで卓が立って、すぐに麻雀を打つ事になった。この男はまた空いていた四番卓の二番席に座った。
さあ、やるのか?
手元をずっと見ててもやらないだろう。こちらが気にしていない素振りを見せるのも、やってみると難しい。慣れているなら、すぐこちらの気配に気付くだろう。三半荘終わったところで、お客さんが来てその卓はお客さんだけで囲む事になった。
竹田さんの成績は三着、二着、三着と、特に目立った上がりも無かった。僕が座っていた席に案内して、おしぼりとコーヒーを出し、レジの確認をしようとカウンターに座る。
僕と同卓してそんな事をする素振りは一向に無かった。でもやるとすれば僕が卓に入っていない時だろう。気にはかけているものの、カウンターからだと二番席の手元は見えない。立ち上がって少し見やすい場所に移動しようとした時、ここでハッとした。
何年も変わらない景色なのに。
分かっているのに分かっていなかった。
そうだ、カウンターからだと二番席の手元は見えない。
この男にとって、あの席の魅力はそこだったのかもしれない。 さりげなく後ろに立つと、何かを警戒しているように、顔は動かさず、視線だけで僕を確認した。それからおしぼりではなく、ハンカチで汗を拭くところを見た時、うまく表せないけどこの人はやってるんだろうなと思った。 真っ白で綺麗なハンカチも、段々と煤けて見えてきた。
「明日は三麻セットの予約が入ってますよね」
店内のみんなに聞こえるくらいの声でオーナーに聞くと、そうだなもう準備しておけと、これまたみんなに聞こえるくらいの声で僕に言った。 チップと下駄を持って、これから明日の準備をしますとわざとらしく行動で語る。少し大げさに牌の音を立てながら、明日の準備を始めた。そして手を動かしながら、遠目で竹田さんを見る。 二番席から僕がいる卓は死角になっていて、振り返らなければ僕の事は見えない。
一局が終わり、また新しい山が上がってくる。
配牌を開けて理牌をする。
牌を揃えてから、字牌を二枚左端に持っていく。
そしてその二枚を伏せて重ねる。
それを左手に持ったまま山を前に出すと同時に、山の左にくっつけて、右から二枚持ってくる。
ーーやった
さっき左端にあった字牌は消えて、手牌には中張牌だけが並んでいた。衝撃だった。十数年雀荘にいて、初めて目の前でイカサマを見た。
流れるような手捌きだったけど、同卓していれば僕が気付かないはずがない。うまくメンツ、僕らの位置が嚙み合った時にやるのだろう。右利きだから、普通なら不要牌は右端に持っていくはずだ。あまり後ろに立たなかったからこの不自然な癖に気が付かなかった。
"お前は人に甘い"
昔からオーナーによく言われている言葉が、僕の脳裏を殴る。考えるべきはお客さん個人ではなく、みんなの居場所であるこの店だ。佐野くんが同卓していなかったら、気付いていなかったらと思うとゾッとする。
卓の準備を終えてから、オーナーに実際にこの目で見たと報告する。
「そうか、やったか。どうするか」
そう、どうするか。でも哀しい事に答えは決まっていた。
一度でもそういう事をした人間をうちのお客さんと打たせる訳にはいかない。ルールという前提条件を破り、信用を傷つけた代償はとても大きい。
イカサマなんてしても、いい事など何一つ無い。それに新宿あたりの高レート雀荘でやるならまだしも、うちほどのレートで技を使っても、勝てる金額なんてたかが知れている。
こういう場で一度でも何かをしたら、もうその人を見る目は変わってしまう。この狭い世界でどんどん居場所が少なくなり、いつしかどこにも無くなってしまう。自分を知らない場所を探してもいつしか尽きる。それを探すのにも、常に背後を気にしなくてはいけない。
その日は確認しただけで三回やった。
現場を確認した次の日、佐野君がまた来た。気になっていたのだろう。
「やるとこ見たよ、よく気付いたね流石だよ」
そう言うと、まんざらでもない感じで笑う。それを隠すようにおしぼりで顔を拭いた。
「挨拶がないじゃんあの人、それでちょっとムカつくなと思ったんだよ」
「うんうん」
「あとはやたら先手を取られた。まあ偶然なんだろうけど、色々考えてるうちにカチャって音がしたんだよね」
「ほうほう」
「明らかに対面が山を前に出した時だった。それから注意して見てたらやってた。しかも何回も」
「出来る時は全部やるんだろうね」
「あの人、どうするの?」
「オーナーが自分の目で確認したいって。まあ時間の問題だね」
その日は金曜日だから、竹田さんは来ない。おそらく次の来店でうちで麻雀を打つのは最後になるだろう。
週が明けて、竹田さんが来た。 いつも通り、入口が良く見える場所に座っていた僕の席に案内する。 オーナーが確認するために泳がせたいけれど、まだお客さんが少なく注目が集まるこの卓ではまだやらないだろうと思い、わざと竹田さんの手牌が見える位置に立った。
今日は手牌より、目の動きを見ていた。配牌が上がってきた時に、まずドラの位置を確認して、顔を伏せたまま同卓者の顔を見渡す。僕が後ろにいるのは分かっているから、ぶっこ抜きはしないものの、他家の顔を確認する癖が目に付いている。相当な常習なんだろう。外見にもそういう目がいく。少しダボっとしたズボンは、何かを隠したい表れでもありそうだ。
目線を見ている時に、今更ながら眉毛を描いているのに気付いた。少し化粧をしているみたいだ。おしぼりを使わずにハンカチで汗を拭くのも、おそらくそのためか。
化粧には見せるものと隠すものがあると聞いたことがある。この人は後者だろう。
セットのお客さんが来て、四卓から目を離した時、おしぼりや飲み物は僕が出して、オーナーがお客さんと雑談しながら竹田さんを凝視する。やはりこのタイミングでやったらしい。この男がここで麻雀を打てるのは今日で最後になった。
それからお客さんも入れ替わり、竹田さんの対面に僕が座った。確認は終わった、もうぶっこ抜きはさせない。そんな僕の思いと一緒に、淡々と卓は進んでいく。
「すいません」
東ラス、ツモがあと一回のところで、竹田さんの手が止まった。
上がればトップの局面だけど、リーチが二件入っている。あと一巡しかなく、降りれば二着は固い。今まで止まらなかった人が手を止めた。三つ鳴いて五枚しかない手牌で何を考えているんだろう。
考えて切ったのは誰にも通っていない六萬だった。切った牌に声はかからず、もう一周して迎えた竹田さんのハイテイ。
「ツモ」
少し興奮しているように聞こえた。ツモった牌はさっき切ったばかりの六萬だった。
通る牌を考えていたのではない、リーチを受けて堂々巡りをしているうちに、役無しで上がっていたところから、最後の上がりを見据えた長考だった。
選択肢には通ったばかりの安全牌もあった。山も深く、この局はぶっこ抜きをしていない。展開を制した良い上がりだった。
だからこそ…
「お見事です」
称賛の言葉を添えて点棒を払った。
それは別れの言葉でもあった。
週は明けて月曜日。 その日はお客さんが二人同時に来た。いつもならお客さんから席を選んでもらうけど、真っ先に二番席を陣取った。今日は僕がここに座りたい。
みんなが卓に着いて、最初の局が始まる前にエレベーターが動いた。それを見て、起親だった僕は手を止めた。やはりエレベーターは三階で止まり、向かってきたのは少し見慣れてきたサンダルだった。
扉が開く前に、竹田さんですと目くばせてオーナーに言う。オーナーは黙って頷き、手牌を伏せて立ち上がった。 ガラス戸が開いた瞬間、"竹田さんちょっと"と言って店に一歩踏み入れた男を外へ連れ出す。
ガラス戸越しに二人の足が見える。残されたお客さん二人は、ぽかんとしていた。僕を見つめる二人に対して無言で頷くと、そのうち一人はなんとなく空気だけは察したようだ。 そしてすぐにオーナーだけ帰ってきた。
「おまたせ」
そう言って卓に座り、え〜と誰が親だっけと、中断していた局を進行しようとすると、空気を察してない方のお客さんが口を開く。
「え、どうしたの?帰っちゃうの、あの人」
オーナーは何て答えるのかなと思っていたら、ワンテンポ置いてから、
「出禁にしたの!うちの雰囲気には合わないなって思ったから」
ちょっと不思議そうな、何か言いたそうなお客さん達の思考を遮るように、僕は少し声を張って言った。
「よろしくお願いします!!」
その挨拶はすぐに人数分揃って、何事も無かったように、いつもと変わらない日常が今日も始まる。
