マンション麻雀

転機

時間は深夜二時を超えた。相変わらず土屋さんが強い。二瓶さんが来てからというもの、やっぱりぴょんは少し打ち方が控え目になった。ここを捉えたいと、突破口を探している時、iPhoneが鳴る。相手は水山さん、LINEではなく電話だった。
「代走入れるか?」
後ろに座っている二瓶さんがその様子を見て気を使ってくるけど、ここの人間に代走は頼めない。
「ありがとうございます。次回場替えなのでそのタイミングで一本電話させて下さい」
その回はあっさり江口さんがマルエーのトップを取った。この一周、僕のカゴのチップはあまり動かなかった。場替えの牌を引いてから、玄関で水山さんに折り返しの電話を入れる。
「どんな感じですか?」
「そんな感じです」
「収支は?二瓶さんいる?」
「二十万負けくらいです。僕の後ろに座ってますよ」
「いいか、これが最後のつもりでやれ。これから先は何も気を使わなくていい。収支も気にするな」

丁度さっき僕の考えていた事を言われた。収支の事を除いては。人の金なんてどうでもいいが、負けで終わるのは許せなかった。  

「分かりました」
そう答えると電話が切れた。何かあったのだろうか、妙な電話だったが、今は深く考えるのをやめた。トイレで顔を洗い、ラストに向けて気合いを入れた。
そして卓に戻り、こう言った。
「レートアップしませんか?」 

自分で自分に驚いた。

レートアップ

経験上、レートアップを提案した人間が勝つところは見た事が無い。でもレートを上げなければ、あと五十万を数時間で勝つ事は難しい。
「人の金じゃねーのか?」
江口さんに突っ込まれる。
「ええ、でも前回、前々回と稼いでいるので、大丈夫です。まずいですか?」
ふんぞりかえっている二瓶さんに確認する。この人の許可が出れば、ここでは何でもやり放題だ。
「いや、構わねーよ。レートが上がるなら俺の代打ちでやって欲しいけどな」
レートが上がれば場代も上がる。二瓶さんからすれば文句は無いはずだ。自分の代打ちが打ってることを除いては。
「いくらでやるの?」
「ウマとビンタを1-2にしませんか?あとはチップを二千円に」
「俺はいいよ、土屋さんは?」
「いいですけど、僕はあと一周で帰りますよ」
「もし途中で抜けるなら松田が入るから心配すんな」  

二瓶さんの了解を得られれば、ぴょんもそれに従うしかない。その後ろで松田さんが少し嫌な顔をしていたのを僕は見ていた。これで取り決めは大丈夫だ。チップも上がり、実質倍以上のレートになった。1000点二百円の根っ子は変わらないけど、ビンタが1-2になるという事は、マルエートップで六万円。チップも合わせれば、東風戦一回で十万円以上動く事もあるだろう。  

楽しくなってきた。ぴょんの顔はまたも青ざめてるように見えたが、ここまで来たら今日こいつはここで殺す。
水山さんにレートアップをした事を連絡したけど、珍しく返信は無く既読が付くだけだった。  

「よし、やりましょう」
このレートアップは功を奏すのか、反省は結果を見てからする事にした。

レートの重圧

熱くなっている時の思考は本当に危ない。あらゆるリミッターが外れ、正常な判断が下せなくなる。結果など見るまでもない、勝負は熱くなった時点で負けだ。しかし最悪の状況は、それに気付かない事。
レートアップ最初の一周は起家スタート。まずは満貫の四千円オールをツモられ、次局に5800の二千円を土屋さんに振り込む。それから江口さんとぴょんが一回ずつ上がり、一人沈みのラスを引いた。チップも含めると十万近いラス。
ここでやっとレートが上がった実感が湧く。そして二回戦、ぴょんの親リーにあり得ない放銃をした時に、熱くなっている事を自覚した。代償はでかく24000点。僕の残り点棒は1000点になった。
「代走お願いします」  

ここに来てから初めて代走を頼んだ。一局やって下さいと告げ、トイレへ。どうせこの半荘はダメだ。ズボンは履いたまま、便器に座り、目を瞑って心を落ち着かせる。まずは熱くなってる事に早く気付けて良かった。まだ諦めるような時間ではない。そもそもレートアップを言い出した事を既に後悔していた。だけど、吐いたツバを飲み込む訳にもいかず、やり切るしかない。このままいけば、負けは百万を超えそうだ。少し前の水山さんからの電話を思い出す。金の事は気にしなくていい、どうやってこの状況を打破するかを考えた。  

椅子を回す?ライターを買いに行く?おしぼりで顔を拭く?牌をかき混ぜる? 

色々と頭をよぎったが、流れを変える前に、原点を意識した麻雀を真剣に打つ事。今日の僕は過去の勝利に自惚れているだけだ。余計な感情はいらない。その結論に至る事で、少し頭がスッキリした。用も足さずにトイレを流し、卓に戻ると、代走の松田さんが江口さんのダマテンに放銃し、飛んでいた。
「悪いな、そんな点棒無いと思わなかったよ」
朝方でも江口さんの煽りは冴えている。 

「いいハンデですね」
そう言って席に戻った。

命日

たかが麻雀、されど麻雀。ここ数年は麻雀に時間と労力を費やし、女といる時間よりも麻雀に天秤が傾く、典型的な麻雀馬鹿だった。  

——勝ちたい

そんな僕がこれ程までにそう思った事は、後にも先にもこの場だけ。華々しく送ってやろう、今日が「桂木」の命日だ。レートアップ後の三回戦目が始まり、江口さんに300・500をツモられ、僕の親はすぐに流れる。そして迎えた東二局、土屋さんの親番。僕も牌捌きには自信があるけれど、この人には負けるかもしれない。ツモる切るの所作はスムーズで、山から手牌、手牌から河まで一直線に手が伸び、ほとんど音を立てない。そんな土屋さんが力を込めて引きヅモした。
ダマテンだけど、高い手だということはすぐに分かった。手牌を開けてみると5萬、5ピンが暗刻の四暗刻赤四。祝儀だけで二万八千円オールで六万点終了。痛すぎるラスだった。負けは五十万を超えた。やはり簡単には勝たせてくれない。  

——なんて面白い麻雀なんだ  

月に数百回打っていれば、負ける事なんてよくある。でも珍しく心中は心地良い。次回は江口さんがトップを取り、僕は三着だった。そして迎える四回戦目、東発から土屋さんとのめくり合いになった。先制リーチに追っかけた僕の待ちは4-7萬。入り目の感触は良く、鉄板の得意待ち、負ける気は微塵もしなかった。

しかし江口さんの鳴きが入り、僕の山から流れた牌は白ポッチだった。この光景も今日二回目だ。それからは江口さんとぴょんが一回ずつ上がり、首が切れているのは僕だけの状況で東ラスを迎えた。18000点ラス目、上は平たくトップ目は29000点、順なんて関係無い、大事なのは原点。ミスをした過去も頭によぎり、最短での満貫を作る。三巡目には、手牌が萬子と字牌だけになった。ドラを二枚、赤を一枚持っているため、対子の北を落とせばすぐに倍満ができ上がる。でもここは満貫でいい。次順、江口さんから出た北を一枚目から叩き、満貫ツモ。二着目の江口さんは親だったので、首を作り、着順を上げ、二人の首を切った。 トップよりも価値のある満貫0枚だった。ぴょんは三回目のおかわり、江口さんも初めておかわりをした。  

土屋さんは、清算が終わり点棒を揃えるとすぐに席を立った。
「お兄さんどっかで打った事あるよね、また会ったらよろしくね」
しかし二度と会う事は無いだろう。チップがあふれそうなカゴを持って土屋さんはカウンターへ行った。いよいよ松田さんが入る事になる。

「十分くらい休憩くれ!金下ろしてくるわ」
江口さんが外に出るのでしばし休憩だ。ちょうど牌が重くなってきたのが気になっていた頃。
「アツシボと乾いたタオルを下さい」
洗牌をしながら待つ事にした。疲れていてもやれる事はやる。これで今まで結果を出してきたんだ。  

上昇

洗牌が終わってからソファに座り、水山さんに状況の報告を入れた。今回は「了解」と短く返事が来た。収支は四八万六千円負け、今日の目標は三十万勝ち。だからあと七十八万六千円勝たなくてはいけない。

松田さんが卓に入る前に、恒例の儀式を行う。スキンヘッドが叩いた手を痛がる程の勢いで、松田さんの背中にもみじを付ける。その後力を入れておしぼりで顔を拭くと、準備が出来たと言わんばかりにどっしり卓に着いた。長時間打つ場合、メンツの入れ替えはあまり好きじゃない。朝までにあと二周できるかな。そんな事を考えていると、見透かすように松田さんが口を開く。
「江口さんが帰ってきたら回数決めるか」
「あと二周くらいでしょうか」
チャイムが鳴り、江口さんが帰ってきた。持っているコンビニのレジ袋に、レッドブルがパンパンに入っていた。
「お待たせ、みんなで飲もうぜ」
仕事でもいい親方なのだろう、やはりこの人は憎めない。そして伏せておいた風牌を引いた。上家に松田さん、下家にぴょんの順になった。非常にやりやすい席だ。
素人の松田さんが入ると雰囲気がガラっと変わる。回りは遅くなり、みんなで気を使うなんとも言えない雰囲気。 打ちにくかったけど、洗牌をしたから牌が綺麗で打ち心地は良かった。

起家スタートだった松田さんの親はすぐに落ちる。ぴょんが跳満の六千円オールをツモり、ついてねぇなぁと松田さんがボヤいた。僕はといえば、その回鳴かず飛ばずの二着にぶらさがる。
さっきと比べれば、自分の麻雀を客観視出来るようになった。手出しツモ切りをチェックし、打牌の強さ等でわずかな空気の変化もしっかり把握出来ていた。それにより、二回目、三回目は連勝できた。
この三回で負けは二十万まで減った。そして松田さんがおかわりをした。  

最初は意気揚々と臨んでいた松田さんの口数は少なくなり、明らかに盆面が悪くなった。以前から気になっていたけど、ここで廻銭ではなく、自分の金で打っていると確信する。嫌な感じがした。  

トラブル

松田さんが入って四回目、トラブルが起きる。僕の起家スタート、リーチの宣言時に、「おかしくないか?」と江口さんが場を止める。先ヅモが横行しているせいで、鳴きが入った時にツモ順と捨て牌の枚数が噛み合わなくなった。
僕だけは先ヅモをしていなかったので、間違うはずはないが、明らかにおかしい。裁定を店の人間に委ねると、松田さんはノーゲーム扱いと言って山を崩した。
手が入っていただけに、頭に来たが、店の裁定ならば従うしかない。
「次回からこういう場合はノーゲーム扱いなんですね?」
同じようなケースが起こった際に、状況によって裁定が変わる事は博打場では許されない。点五の雀荘でもマンション麻雀でも一緒だ。
何より連勝で良い流れが紛れるようで嫌だった。確認をしてから、少し挑発的にボタンを押して山を上げる。 親は流れず平場のまま再スタート。ここで前局以上の手が入った。リーチをかけ、二巡後に力を込めて引きヅモをした。メンタンピンツモ赤三裏。8000オールの8000円。 

紛れが起きる局面で、流れはこっちに傾いた。松田さんから点棒が飛んできた。
——仕上げてやろう
熱くなっている素人に対して、少し感情的にそう思った。どうせ後一周で終わるし二度と来ないからと、この時は後先なんて考えてなかった。
勝負事には手加減や気遣いを持ち込むなと教えられてきた。同じ土俵に立った以上、正々堂々と勝負だ。極道だろうと何だろうと、卓を囲めばそんな事は関係ない。 僕の正々堂々の中には、「煽り」も含まれる。なぜなら麻雀とはそういうゲームだからだ。ただ、失う物が大きい可能性があるから、「煽り」を使う時は限られている。
「煽り」にも種類があり、言動で煽る時も、それとなく動作で煽ったりもする。今回は後者を使う。
場替えでまた上家に松田さんが座ることになった。今まで先ヅモはしていなかったけれど、上家の松田さんを煽るため、露骨に先ヅモを始めた。鳴きを捨ててでも先切りまで始め、一人の人間を仕上げたかった。 

不要牌は右端に置くことにし、先切りをはじめてからは音を立てずに素早く小手返しをしていた。そして上家にポンが入った際、ツモ牌ではなく、右端の不要牌を戻す。そんな小技も使っていた。 疲れている時間帯、唯一打てる江口さんに気を付ける。手戻す動作を素早くすれば、疑われる事も無かった。やれる事は全部やる。 

残り四回戦。さっきのでかいトップで収支は十万負けまで来ていた。時間は深夜四時。
東発に親のぴょんが松田さんから満貫を二回上がり、松田さんが逆マルエーのラスを引いた。早くも二回目のおかわりをした後の松田さんは打牌がさらに強くなった。
慣れない牌捌きの強打は見ていられるものではない。しかしたった一時間程で二十万溶かした心中は燃え上がるものがあるだろう。

無情にも、こうなってしまった人間に麻雀の神様は微笑まない。それを僕はよく理解していた。 

底無し沼

松田さんにどれ程の手が入っているのか分からない。上がりは少なく、手牌を開く事が無いので、手牌の構成や捨て牌のバランスも測れない。配牌を開けた際にため息をつくと配牌が悪いという事だけは分かった。

最後の一周が始まる。休憩は無く、松田さんから風牌を引いていく。僕の場所は変わらず また松田さんの下家になり、ぴょんと江口さんの席が入れ替わった。まだ負けてはいるものの、負けで終わる気はしなかった。先ヅモが有りとはいえ、ツモ牌を触ってしまっては鳴けない。先ヅモ有りの特徴だろうか、全員鳴きたい牌がある時に露骨に先ヅモをしなくなるので、字牌の絞りも楽になり、下家に江口さんが座ったため、守りは完璧になった。

スタートは僕のマルエートップから始まった。江口さんが先ヅモをする時は自由に手を進め、しない時は死に場所だと言わんばかりに絞る。そんな簡単な基準の押し引きで取れたトップだった。僕は収支を把握するために、カゴの中でチップのタワーを作っていた。一万円チップ十枚の山が四つできて、ようやく原点に戻る事が出来た。しかし気は抜かず、手は抜かなかった。自分の中の分岐点を超え、より一層、冷静に集中力が上がっていくのがわかる。

二回目、東二局に親の松田さんからリーチが入り、同順に僕の手牌も追いつく。九順目、ドラの6pを切れば2−5−8ソウの三面張。点棒は東発に千点横移動だけの平たい局面。ドラを叩きつけてリーチをかけた。松田さんから聞こえたのはロンの発声ではなく、舌打ちだった。松田さんが一発目に叩きつけた牌は赤5ソウ、跳満の六千円。その点棒を守りきって二回目もトップで終了。ようやくプラスに転じた。だが露骨に松田さんの機嫌が悪く、卓上の雰囲気は最悪だ。

続く三回戦、江口さんがでかいトップを取り、僕は二着で終わった。松田さんはまたラスだ。ここ三十分くらいは、麻雀の発声以外、誰も言葉を発さない。
あっさりと最後の四回目は終わった。ぴょんがトップ、僕が二着、松田さんが三着、ラスは江口さんだった。目標までは足りなかったけど、何とか報酬をもらえるまでは勝てた事により、ほっと胸を撫で下ろした。
松田さんから出てきた黒棒をしまい、椅子を引いて最後の清算をしようとすると、支払いの前に松田さんがこう言った。

「もう一周やろう」

もう一周

「江口さんいいかい?」
「ああ、付き合うよ」
僕とぴょんには聞かないようだ。
「仕事があるので、できてあと一周ですよ」
これは経験上、永遠に終わらないパターンだ。始まる前に釘を刺すも、松田さんから返答は無かった。ところが次に出た言葉が、僕を喜ばせた。

「レートを上げよう」
チップはそのまま、ビンタとウマを倍の2−4という提案だった。
「おいおい、大丈夫か松田さん」
「このまま終われませんよ、いいですか?」
またも質問は江口さんにだけ。少し考えてからいいよと頷いた。この少しの間は、江口さんが自分の財布と相談していた訳では無く、松田さんを気遣っての事だと分かるが、熱くなっている素人相手に、そんな事は余計なお世話だろうと僕は思っていた。ぴょんは言われるがまま。

もう時間は六時を過ぎている。次の日も夕方から仕事なので、帰って少し休みたかったけど、こうなれば仕方がない。後の事は考えなくていい。熱くなっている素人のチップは根こそぎ頂こう。席替えを挟み、「もう一周」が始まった。
チャンスが出来た事が嬉しいのか、松田さんの機嫌が少し良くなった。クビ有りの二着を取り、少し戻したかと思いきや、それも最初の一回だけ。当たり前のように最初のトップは僕だった。二着でもクビがあれば、ビンタだけで六万のプラスになる。レートアップを繰り返した結果、感覚が麻痺してきた。

それからやはり松田さんは刺さった。上がりは無く放銃は多い。めくりあいにすらならない。江口さんの点棒の申告は、少し申しわけ無さげな感じで声を出す。正直らしくないと思ったけれど、江口さんにそうさせる程、松田さんは刺さっていた。出来れば松田さんからは上がりたくない。同卓している誰もがそう思っていたはずだ。麻雀を知らない人が実践で覚えていくようなレートではない。

最後の一回、決着は早かった。
僕の起家スタートで始まり、ダブ東を仕掛けて赤ドラの満貫をぴょんから上がる。続く一本場、最高の手が入る。
待ちは得意の4−7萬。好きな待ちなんていうものは、どうでもいい戯事。だけど誰しも思い浮かぶ牌はあるだろう。僕がこの待ちを好きなのは、こういう印象に残る場面でこの待ちが多いからだろうと、牌をツモってからリーチ宣言をするまでの短い時間でしみじみ考えていた。タンピン三色赤3ドラの、高めダマ倍だ。原点を意識するように打っていた姿からは有り得ないかもしれない、水山さんが後ろで見ていたら怒るかもしれない。
でもここでリーチをしないのは僕の麻雀じゃない。マンションだろうが、ビンタのルールだろうが、ヤクザと一緒に打っていようが、僕の根本には麻雀はリーチをかけてツモるゲームだという、師からの教えがあった。力は込めず、綺麗に河に並ぶように、丁寧に牌を切った。一発目から無筋を切ってきた松田さんが、四巡後にリーチの発声と共に切ったのは7萬だった。安めだけど、裏ドラは7萬で倍満。本当に麻雀は良く出来ている。

ロンと言って裏ドラをめくってから、倍満の申告をするまで少し間を空けた。それは指を折っているわけではなく、同情の念だった。もうやめた方がいいという事を伝えるには高すぎる授業料かもしれない。いつもなら点数の申告後には真っ先に山を落とすボタンを押すが、今回は押さなかった。

誰も押さなかった。

駆け足

卓上に倍満を残したまま、松田さんが黙ってみんなにチップを支払う。一人沈みだとウマだけで一二万の払いだ。自分の点棒を揃えてから、おしぼりで卓のパネル表示部分を拭き、雀荘であればご案内出来る準備をしてから席を立った。 

「もう一周やろう」
松田さんが冗談なのか熱くなっているのか分からない声で言う。
「すいません、仕事があるので」
「おい、座れよ」
ドスの効いた声で言った言葉は正に極道。仮に断ったとして、僕みたいなガキに本職の人間が手を出すのか、どんな態度を取ればいいのか、ギリギリのラインはどこか。そんな事を考えながら立ったまま答えを探し、沈黙の時間が過ぎる。

「ごめん松田さん、俺も時間だ」
そう言って江口さんも席を立ち、沈黙は破られた。そしてカゴをカウンターまで持って行く。松田さんはもう何も言わずに椅子にうなだれている。僕に気を遣ってくれた、江口さんの粋なファインプレーだ。
麻雀が終わった瞬間に恐怖がこみ上げてきた。一刻も早くこの場所から出たい。江口さんの換金を待っている間、チップを数えやすく並べ、二割の取り分の計算をしていた。思った以上に勝っていた。五十四万六千円分の浮きチップがあり、報酬は十万九千二百円。 水山さんに素早くLINEで報告を入れる。
江口さんの換金が終わり、スキンヘッドの元へカゴを持って行く。チップを数え、電卓を叩き、合計の数字を見せてくる。僕の計算と合っていたので、頷くと千円持っているか聞かれ、差し出すと、十一枚の一万円札を渡された。
「お疲れ様でした」
そそくさと帰ろうとすると、ソファで力なく座っていた松田さんがこっちへ来る。そして僕の肩を掴み、また来いよと言った。
何も喋らず会釈をしてそそくさと玄関を後にする。初めて見送りは無し。ドアが閉まると、松田さんが電話をしている声が聞こえた。どこの誰と何の話をしているのかは分からないけど、その時は怖くて仕方が無かった。エレベーターを待たずに、階段を駆け下りる。  

もう明るくなっていた駅までの道のりは、いつもの十倍くらいに感じた。来た道を通っていると、案内所の前で先ほどの金髪キャッチが立っていた。
「お疲れ様です、勝ちましたか?」
笑顔で話しかけられるが、世間話をしている余裕は無く、無視して駅を目指す。
人通りは多いが、おっかなくてしょうがない。なるべく大通りを通り、iPhoneのインカメラを起動して背後を確認しながら歩いた。駅の近くになると人混みに紛れ、地下に潜り改札を抜け、電車を待つ。電車を待っている間も同じ場所に止まっている事はせず、ホームを歩き回っていた。  

やっと電車に乗った瞬間、力が抜けて席のない場所に座り込んだ。  

その後

東ラス親番。ラス目で迎え、配牌は最悪。目指すところはテンパイしかないような手牌で、必死に周りを抑えつける雰囲気を作る。でも付き合いの長い常連たちにはそれを見破られ、あっさりと親は落ちた。
「ラストありがとうございまーす」  

年は明けても、相変わらずメンバー業を楽しんでいた。やはりこの仕事は楽しい。麻雀をするのも、お客さんとコミュニケーションを取るのも好きな僕にとっては天職だと思っている。最後にマンション麻雀に行ってから二ヶ月。あれから水山さんと連絡はとっていない。もうあの場所に顔を出すことは無いと思っていたある日。  

「おい、これ見てみろ」
店の待ち席で、テレビを見ていたオーナーに呼ばれた。よくある裏カジノ摘発のニュースがやっているみたいだ。東ラスの卓があったので、気になりながらもテレビの方へ。
「もしかしてこれ、例の場所じゃないか?」
開いた口が塞がらない。場所はマンション麻雀のある繁華街。よくある裏カジノ摘発のニュースだったけど、逮捕者の一番上に名前が出ていたのは、あの川嶋さんだった。  

「はい、そうです」
水山さんもパクられたのか?内偵は入っていたのか?いつからだ?現行犯ではなく、客なので僕がパクられる可能性は極めて低いが、水山さんの様子が気になった。
「すいません、少し電話してきます」
一入り中のメンバーから、ラストを告げる声が聞こえたけど、それどころではない。外に出て水山さんに電話をかける。外は暖かくなってきたものの、上着も持たずに飛び出してきたので、まだまだ寒い。

呼び出し音を聞きながら、最後に行った時に、かかって来た水山さんからの妙な電話を思い出していた。そして麻雀の事も。二度と行きたくはないけれど、真っ先に浮かぶのは楽しかったという事。これから先あんな痺れる麻雀を打てる機会はあるのだろうか。
留守電に切り替わる直前、水山さんが電話に出た。少し安心して、いつも通りの低いトーンを真似て問いかける。  

——どんな感じですか  

——そんな感じです  

おしまい。